2020.11.25

「四十歳をもって初老とすることは東洋の智慧を示している。それは単に身体の老衰を意味するのでなく、むしろ指針の老熟を意味している。この年齢に達した者にとっては死は慰めとしてさえ感じられることが可能になる。」

三木清の「人生論ノート」を読んでいる。人生に迷っている証だ。そういうときには、哲学か心理学か宗教の本を読む癖がある。この本は180ページもなく薄いのに、全然読み進まない。分からないところ繰り返し読むけど、分からないので、分からないまま先へ進んでいる。この「死は慰めとしてさえ感じられる」というくだりは、思うところがあった。以前から、「どうせ死ぬんだし」とか「最悪死ねばいい」と自分に言い聞かせてきたことがある。不謹慎とは思うが、生きたくても生きられなかった人に申し訳ないと思わないのかと言われたら申し訳ないとは思うが、実際こう言い聞かせてなんとかしてきたときもあるので、仕方ない。ただ願望があるわけではないし、実際にその段階になったら怖くなると思う。

小学校の頃、関東に住む大叔母の家に毎年遊びに行っていた。いくつの時かは忘れたが、たぶん低学年か中学年の時、大叔母の家で寝ている時、急にもし大叔母が死んだらもう会えないどうしようと考えて、悲しくなって泣いたことがある。その年の帰りは、同じ思いに襲われた大泣きしていた。泣いてしまって訳は話せないので、大叔母は困っていたと思う。ごめん。それと同じ時期くらいの出来事。私はみかんが好きで、ご飯も食べずにみかんばかり食べていた時期があり、母親によく注意されていた。ある時、言うことを聞かない私に母親がきれたのだと思うが、そんなにみかんばかり食べているとそのうち体が黄色くなって死ぬと脅された。親と比べると黄色みが強い肌だったので、もう黄色くなりかけていると思ったのは覚えている。ただ、死ぬのが怖いと思った記憶がない。この時は自分が死ぬということが分かっていなかったのかもしれない。

自分が死ぬということが怖いことだと初めて思ったのはいつだろう。思い出せない。

バス停で殴打されて亡くなったホームレスの女性のことを考えてしまう。他人事とは思えなくて、私は今健康で仕事も住む家もあるけど、こんなに不安定で先行きが見えない世の中で、いつ彼女と同じ境遇になるかなんてわからない。自分が彼女と同じ年になったとき、年金なんでもらえないし、仕事だってあるかわからない。親はもういないだろうから、頼れる人もいなくてと、最近は夜はぐるぐると考えてしまって、寝付けない。考えても仕方ないし、備えておくことしかできないんだけど、今の政治の状況を見ていると、いざとなったときは助けてもらえないんだろうなと思ってしまう。自分のことばかり考えてしまったけど、彼女は殺されるかもって思ったとき、怖かっただろうか。何を考えたんだろうか。

「人生論ノート」は「〇〇について」と題された文章がたくさん載っていて、ひとつ一つは数ページと短い。それを1日1つずつ読んでいこうと思っている。読み始めて1週間くらいたったが、今4つしか読めていない。今日は2つ読んだ。