2021.1.12

ディスタンクシオン」のテキストを読み終えた。

岸さんはブルデューは階層構造に対する怒りがあると言う。生まれ持った資本量や資本構造よって決まるハビトゥス、それを社会での地位に再生産させる学校教育の構造、上位階層にいる人たちがそこにいることが自分たちの才能や努力によるものと信じていること、その人たちが下位階層にいる人たちがその階層にいるのは自己責任だと思っていること、下位階層にいる人たちもそれを内面化してしまっていること、それが自然だと受け止められていること。でも、「ハビトゥス」、「界」、「文化資本」という概念よって構造が明らかになれば、それは自然ではなくなる。ブルデューが行ったことによって、私たちは「他社の合理性」を知ることができるという。

ブルデューが言う「闘争」とは、「自分たちなりのやり方で、自分たちの人生を「より良いもの」にしようと、必死でがんばっています。」くらいの意味でとらえてほしいと、岸さん。そして、そのやり方はその人のハビトゥスによって選択される。自分にとっては理解できない選択も、その人なりの理由や動機がある。それが「他者の合理性」。ハビトゥスはその人の人生の履歴である。一見不合理に見えても、その人は自分の人生を「より良くしよう」と頑張っているんだと。他人を完全には理解できない。でも、「ハビトゥス」という概念を通じて、その一端を知ることはできるかもしれない。優しくて厳しい指摘だと思った。

第3回で、ポール・ウィリスの「ハマータウンの野郎ども―学校への反抗・労働への順応」という本が紹介される。この本はイギリスの労働者階級の不良少年たちがなぜ自ら勉強もせずにぐれてドロップアウトしていくのか、なぜ進んで労働者階級の仕事に就くのかを調査したもの。彼らの周りの大人は総じて学歴が低いため、学校で勉強をするということに価値を置かない。知的能力の問題ではなく、ハビトゥスのレベルでの排除だという。「身についた文化によって、勉強するかしないか以前に排除されているのです。彼らにとっては、むしろグレてドロップアウトするほうが合理的です。ただし、その時点では合理的な行為でも、長い目で見ると、不利な立場を自分から選んでいることになります。」その時点では自分の人生をより良くしようと思ってした選択が、実はそうではなかったということは往々にしてあることだろう。それに気が付いたとき、どうするか、そもそも気が付けるのかも、ハビトゥスによるのだろう。その選択が決して自分の人生をよくするとは限らないと分かっていながら、その選択をするしかない、続けるしかない状況というのは辛いものがある。どうしたらいいんだろうね。

読んでいて改めて自覚したのが、こういった概念を他者理解のためではなく、どうしたら自分が助かるかの視点で読んでしまうこと。役立てようと思って読む読み方は嫌だったくせにね。