2021.1.20

年末にラジオを聞いていて、若いジャズシンガーが司会者にどうして音楽の道に進もうと思ったのかと聞かれて、「気が付いたらこうなっていました」と答えていた。ハビトゥスという概念を知った今なら、きっとこの人は小さいころから音楽を聴く環境にあって、楽器を習うこともしていたのかもしれないと思いいたるようになったが、聞いていた時は、音楽の道なんてなろうと思って意識的に選ばないとなれないだろうと、得意の僻み根性も手伝って、自慢に聞こえてしまった。

「急に具合が悪くなる」という本のなかにも、選ぶということについて、似たような話が出てくる。ひとつは、著者の宮野さんの体験。宮野さんはがん患者で医師から緩和病棟探すように言われる。沢山の情報を集めて精査して、メリットデメリットを比較してと選ぶことに疲れたとき、故郷の京都に帰ろうと思う。宮野さんの状態で京都に移動することはあまりいいとされることではなかったのだが、その京都である病院と出会い、看護師と出会い、緩和病棟が見つかる。合理的に選択しようと思ったのではなく、ふとこうしたいという流れの中で見つかったので、「選んだ」とか「決めた」という感覚はなかったと書いている。それを受けて、もう一人の著者、磯野さんの知り合いのボクサーの話が続く。そのボクサーは連敗が続き、本人もやめようかと悩んでいたところ、急に連勝が続く。その理由が分からないという。「自分の意思じゃなく、こうなることが初めから決まっていたような気がするときさえある。でも、よくわからないけど、その時その時の出会いや言葉、やってくるチャンスに乗って気が付いたらここにいた。」

ジャズシンガーとおんなじこと言ってる。もちろん、そのための努力を続けて、だからこそつかめたチャンスだし、今の場所だと思うんだけど、いいなあと思ってしまう。でも、もし望む結果になっていなかったら、ジャズシンガーになれてなかったら、連敗がつづいていたら、「気が付いたらこうなっていた」とは言わないよね。努力したけどできなかったになるのかな。努力したって叶わない時は叶わなくて、それプラス何かがあって、気が付いたらそこにいたになるのかな。何かが叶うときって、そういう感覚なのか。今の場所から抜け出したくてじたばたしているけど叶わなくて、努力が足りないのか、何かが足りないのか。何かとは、出会いではないかと、読み進めて思った。ディスタンクシオンでも、様々な階層との出会いがハビトゥスを変容させると言っていたし。

「選ぶ」ってなんだ。