2021.1.21

読んでる本でいいなと思った部分とか、本や映画の感想を書いているブログのいいなと思った部分を、よくパソコンでうって残している。そうすると、自分で文章を書こうという気がしばらくなくなる。確か、米原万里さんの本に、ロシアの学校では作文をいきなり書くように指導するのではなく、まず、本の中から、例えば、人物を描写している箇所だけを抜き出して書き出すとか、そういう書き方の練習をしているというのを読んだのがきっかけ。学校で文章の書き方なんて習ったことがなかったから、これは真似してみようと思った。前に映画の感想を中心に書いていたブログをやっていた時、人の感想を書き出していると、自分が思っていること、考えていることをすでに文章で書いている人がいるんだから、自分が書く必要はないのではないかと思って、更新がとまったことがある。たぶん私の書くという行為には、感じたことを残しておきたいという気持ちがあって、それを他人が書いてくれていたら、しかも自分よりうまい文章で書いてくれていたら、自分が書くまでもなくもう残してあるのだから、必要ないのではと、そう思った。僻み根性で、私よりうまい人がいるから自分が書いたって仕方ない、とかじゃないんだよね。もちろん、そういう気持ちがないわけじゃないんだけど、それより、こういう言い回しがあるのかとか、内容をまとめるにしても、自分とは違う視点があるなとか、そんなこと考えながら書き出している。そういうとき、よし、私も書けるようになろうと、意気込むような、そんな感じにはならない。それでも、書き出すのをやめないのは、文章が上手くなりたいという気持ちよりも、単純にこの行為が好きということなのかもしれない。たまにふと、あの本のあの文章、今の自分に必要な言葉かもと思い出す。

過去の自分のブログを読み返すと、自分じゃないような気がするときがある。文章が整っていて、人に読まれるかも前提で書いているから整えて書いているんだけど、なんか、全然ぐちゃぐちゃしてなくて、まっすぐで、格好つけてて、自分で読んでておかしくなる時もある。絶対に人に見せられない日記は文章になってなくて、後で読み返すと、何のことを書いているのか分からないときもある。日記の方が断然自分に近い。そのごちゃごちゃでいやだいやだでしか自分の気持ちを表現できていないような日記を、何が嫌なのか、どう嫌なのか、考えながら書き直したのがこのブログの一部になっている。ブログを始めた頃は、日記書かなくなるかなと思ったけど、日記も続いている。自分の字じゃない、画面上に打たれた文字って、自分とは距離があって、日記より客観視できている気がする。