2022.9.21

「シーハルク」の第五話、笑いすぎて涙が出た。辛いことあっても、これを思い出せたら頑張れそうな気がする。ジェン、笑ってごめんと思ったけど、抑えきれなかった。感想探してみたら、あんまりなくて、CGのひどさが気になるというのが沢山出てきた。それは、確かに。画面がのっぺりしてるなとは思っていた。少し前にMCUの労働環境のひどさを訴える記事が出ていたもんね。私はドラマを追うのを最初から諦めた人間だけど、ファンの間からも本数が多いことと、新作が短い期間で次々発表されることが問題に上がっていたし、改善してほしい。さて、「シーハルク」の第五話があれば、「チェルノブイリ」が見られるかもしれないと思い、見始めた。前から見たかったんだけど、コロナのストレスもあって、重い題材を扱った作品は避けていた。でも、辛くなったら、これを思い出せば大丈夫というお守りが手に入ったので、見始めた。炉心がないって報告しているのに、報告した人を混乱しているだけだと決めつけ、そんなわけないって話聞かなったあいつにも、線量が高性能の機械でも測れないって報告しているのに、その機械が壊れているだけだって言うあいつにも、その間にも作業員が亡くなって、多くの住民が被ばくしてるんだぞって、めちゃくちゃ腹立った。病院に原発の近くで消火活動にあたっていた消防隊員がぞくぞく運ばれてきて、看護師がやけどがひどいから服や靴を脱がして、それを一つの部屋に積み上げていく。どんどん積み上がっていく靴や服、ヘルメットの画が、めちゃくちゃ雄弁。今、これだけたくさんの人が危険な状態にあること、そして、それはこれかも増えることを物語っている。そういえば、D+に「拾われた男」がある。NHK+でも見られなかったのに、なぜ。先週終わった野枝のドラマもやってくんないかな。

エッセー読み終わった。昨日経済学の本読んでいるって書いたけど、経済学の本じゃなくて、経済について書いた本だった。経済学者じゃなくてジャーナリストが書いてた。「アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か?」まだ本は最後まで読んでないんだけど、「「自分への投資」は人間を何に変えるのか」という章は、自分がいかに新自由主義の思想につかっているかが改めてよくわかった。アダム・スミスが「人的資本」と呼んだもの。新自由主義の世界において、人の教育やスキルや能力は一種の資本である。だから、「雇用主は、従業員に投資する。人の能力やスキルを資本と捉え、その資本をいかに増やすかを考えているわけだ。」「人的資本の概念は世界を変えた。この言葉が登場して以来、誰もが起業家となり、自分を経営しはじめたのだ。」私が放送大学に入って文学や歴史を勉強していた時、こんな役に立たないことを勉強しているより、もう一度プログラミングをやってみるとか、資格取得の勉強をするとか、将来役に立つことを勉強したほうがいいのではって悩んでいたのは、まさにこのことに由来する。将来のために自分に投資をしなければ、大きな損失を生むかもしれない。今の判断が、将来の自分へ返ってきてしまう。自己責任だ。「新自由主義は人間を資本に変えることで、労働と資本の対立を解決した。人生は投資であり、投資がその人の市場価格を左右する。」うわあ、最近の自己責任て言葉の使われ方は人を追い詰めるから好きじゃなかったのに、自分を追い詰めていた。新自由主義の考え方に浸かっているのは自覚しているつもりだったけど、こうやって言葉にされると強烈だった。

そこで思い出したのが、先週のラジオ文芸館、朝井リョウの「七分二十四秒目へ」だ。ここからネタバレあります。派遣社員として働くヨリコ。入社した時2人いた先輩派遣も、しばらくして1人が契約を切られる。もう一人の先輩のヨシエと仕事をしていたが、半年前ヨシエの契約も切られてしまう。ヨリコは1人で必死に仕事をこなすが、その働きが、この仕事は1人でもできると受け取られ、24歳の新人派遣、アスミが採用され、ヨリコは契約を切られてしまう。ヨリコはアスミの18歳上、ヨシエはアスミの26歳上。ヨリコは自身の最終出勤日に、ヨシエのことを思い出していた。ヨシエの最終出勤日は、出産で退職する正社員の女性の最終出勤日と重なっていた。正社員の女性の送別会の帰り、二次会へ向かう社員の群れからこっそり離れるヨシエを見かけたヨリコは、ヨシエの後をつける。ヨシエが向かったのはラーメン屋。耳にイヤホンを入れ、スマホの画面を見ながらラーメンを食べるヨシエの姿を見たヨリコは、昼休みにときどき店で見かけるヨシエが、同じような姿でいつも動画を見ていたことを思い出す。何の動画を見ているのか気になったヨリコはラーメン屋に入り、ヨシエの背後からこっそりスマホの画面を覗き見る。ヨシエが見ていたのは豊橋に住む5人組の男性のユーチューブだった。ファミレスで全商品頼んで食べきれなかったり、じゃんけんで負けた人が嫌いなものを吐くまで食べてみたり、この世界で何の役にも立たない動画だった。見ている時はどんな感情も湧かない、何の学びもない、そんな動画。ネットにはこの世界を生きていくために必要な情報が溢れている。役に立つ情報が沢山ある。ヨリコは彼らの動画を見ている時だけ、「息ができる」と感じていた。

おとといの夜ラジオで聞いて、昨日の夜本を読んだ。24歳のアスミは、化粧品を買うときは美容系のユーチューブを参考にすると話し、何の役にも立たない豊橋の5人組の動画を嫌っていた。ヨシエは昼休みが始まる12時になると速攻で席を立ち、彼らの動画を見ながらの昼食を楽しみにしていた。ヨリコはヨシエのスマホを盗み見て彼らの動画を見るようになった。前は、ヨシエもヨリコもアスミのように「役に立つ」情報を見ていたのではないか。でも、社会での男女差別、正社員と派遣の格差、若くない女性としての生きづらさ。沢山の生きづらさの中で、沢山の役に立つ情報を前に、ヨリコは「生きていくことを諦めろ」と言われているような気持になった。だから、それをしている時だけは息ができるものが必要で、それは何の役にも立たないものじゃないとだめなんだろう。新自由主義の世界で、人が資本じゃなくいられる時間は、役に立たないものに触れていられるときだけなのかもしれない。