2022.11.24

昨日、冬靴買いに行ってきた。前に履いていたのがダメになって、でもその時3月だったから、置いてある冬靴のサイズが全然なくて、諦めた。靴の試着は結構疲れるので、今日は冬靴だけを探すと決めて行ってきた。病院行くときに探そうかなとか、あれとあれも欲しかったからそっちも探そうかなって思ったけど、1回に1個のことにしないと、疲れてダメ。商業施設が集まっている所に行って、5軒の靴屋を周った。10時過ぎに着いたら空いていた。5軒中4軒で同じ靴をいいと思い(1軒にはその靴が置いてなかった)、最後の店でそれに決めた。1件目からそれがよかったんだけど、税入れると1万越すのよ。だから高いなと思って、もう1足いいなと思ったのは5千円位だったんだけど、靴底の硬さが気になってやめた。散歩で歩くことを考えると、歩きやすいのが一番いい。あと、いいなと思ったのはゴアテックスで1万7千円だったので、却下。1時間ちょっとかかって決めて、その後本屋をうろうろして、11時半くらいにカフェに入ろうかなと思ったんだけど、昼になると混みそうだから、パンを買ってお昼は家で食べようと、帰った。目的が達成できたからよし。

清少納言を求めて、フィンランドから京都へ」を読み終わった。翻訳されたのは去年だけど、フィンランドでは2013年に出版されたようで、著者は日本に滞在している時に、東日本大震災にあっている。災害時に日本語が分からない人に対して情報が全然届かないって描写があって、でも携帯にはフィンランドの家族や友人たちから早く日本を出ろとメッセージが届く。不安だっただろうな。あと、美術館や博物館に英語での説明がないことに驚いた。京都は海外からの観光客が多いから、その辺りは整備させていると思っていた。著者はビザの関係で90日しか日本に滞在できないから、90日経ちそうになると、フィンランドへ戻り、また日本へと3度繰り返す。だいたい周りの人が海外に行くと、平日5日間休みを取って、前後の土日くっつけてというパターンが多い。自分もこれで行った。こういう短い観光旅行とも違うし、日本で生活をしているとも違う、滞在者としての視点から書かれた著者の日常も楽しかったし、何より、超うらやましかった。本当にうらやましい。著者は日本滞在の最終日に、十二単を着る体験に行く。十二単ってものすごく重くて、全部着てから写真を撮る時には、首すら動かせなくて、二重顎で写ってしまう。その体験をしながら、著者は清少納言の最後が気になって仕方がない。枕草子にはそのことが書かれていないし、どの文献にも残っていない。中宮定子が亡くなった後、出家したとか、定子の妹に仕えたとか、再婚したとか、物乞いになって亡くなったとか、さんざん言われているけど、本当のことは分からない。どうしてこんなに気になるのかと言うと、著者もフィンランドへ戻り、この「冒険」が終わった後、自分がどうしたいか分からないからだ。元の職場に戻るのか、辞めるのか、辞めるとしたらどう生活するのか。さっきも書いたように、2013年の本なので、翻訳が出版されたときには、著者の身の振り方は分かっている。訳者あとがきによると、仕事を辞めて作家として本を2冊出版している。同じように旅をして本を書いている。でも、十二単を着ている時は全く分かっていなかったんだよね。その不安をセイが宮中を去った後と重ね合わせて、セイに語るように吐露する描写がよかった。著者の「冒険」の日常と、枕草子からのセイの言葉、それに触発されて著者が紡いだ言葉、セイを調べるうえで避けて通れないムラサキのことや、セイを宮中から追い出した道長のこと、セイのファンだった吉田兼好のこと、「源氏物語」の翻訳を読んだヴァージニア・ウルフのこと。著書の迷いと、思考、そしてセイへの愛情があふれるこの本は、本当に読んでて楽しかった。本の中で触れられるウルフの「自分ひとりの部屋」で書かれた、「みなさんには、あらゆる本を書いてほしい、些細なテーマであれ遠大なテーマであれ、ためらわずに取り組んでほしいと申し上げたいのです。みなさんには、何としてもお金を手に入れてほしいとわたしは願っています。そのお金で旅行をしたり、余暇を過ごしたり、世界の未来ないし過去に思いをはせたり、本を読んで夢想したり、街角をぶらついたり、思索の糸を流れに深く垂らしてみてほしいのです」がね、めちゃめちゃ響くのよ。著者も書けないってなったときに、この言葉に励まされている。フィンランドで出版されたとき、幅広い年齢層の女性たちから感想が寄せられたらしい。「人生を変える勇気をくれた」「転職する気になった」とか「これまでしようと思っていたことを実行しようと決めた」とか。単純な感想だけど、書くってすごいことね。書いたものを読んだ人にも影響を与えるけど、書いている本人が一番影響を受けるのかもしれない。私は、本も出していない、旅もしていない、ここでただ書いているだけだけど、この行為にどれだけ救われているか。完全に自分のために書いている。そして、フィンランドで日本ブームも起きたらしい。私はこの本を読んで、清少納言のことも枕草子のことも、その周辺のことも、その影響のことも、全然知らなかったなと思った。

会社のトイレで使っている手を拭く紙が、薄く小さくなっている。郵便局から今後集荷には伺えませんて連絡が来たらしい。出すだけの自分には影響はないんだけど、総務では今後投函に行かないといけなくなる。そういえば、郵便局も人が減っている。職場の近くにあるのは小さくて、コロナ前はたいてい3人いたんだけど、窓口に女性2人と奥に中年男性1名か、窓口に女性1人と若い男性1人、奥に中年男性1名だったのが、多分去年のb中くらいからかな、男性2人になった。物価の値上がりは日々の買い物や水道光熱費で感じていたのに加えて、サービスの縮小もこれから増えるんだろうな。いや、もう進んでいるんだろうけど、もうひとつ、取引先からとある事業から撤退しますって連絡もあって、重なったのでね。そして、他人事じゃないかもという思いに襲われる。転職できないとか仕事にやりがいとか言っている場合じゃないかも。ああまずいまずい。ぐるぐるに陥りそう。休みのことだけ考えよう。明日行けば休み。いつまで目を逸らし続けるつもり?もうどうにもならなくなるまで。だって目をあわせてなんとかやってみたけど、どれもうまくいかなかったから、もうお手上げ。その時後悔しない?するに決まってる。今だってずっとしてるんだもん、その時急にしなくなるなんてことはないよ。

「食の流行から見る暮らしの近現代史」、第6回は「70年代外食ブーム」。70年代に、主婦であることを前提としない女性雑誌のアンアンやノンノが創刊される。それまでの女性誌にはレシピや洋服の型紙が付いていたが、そうではない、ファッションや旅行、グルメの女性雑誌が出てきた。70年代に手軽に食べられる外食店が増え、外食がブームになる。家電により家事労働の時間が減り、主婦たちも外食を楽しむようになるが、それでも、家族ではなかなかいけないため、家庭で懐石料理やコース料理を作る主婦が増える。この頃の料理番組や、レシピ本では手間のかかる料理のレシピが紹介されている。ただ、この時期はオイルショックで企業の業績が悪化し、家計のためにパートに出る主婦も少なくなかった。しかし、依然として性別役割分担は残るので、夫からパートに行っても家事には手を抜くなと言われていたそう。今と変わらんし。後、この頃の主婦が、手間のかかる本格的な料理に挑戦するのは、自己実現の一つなんじゃないかって指摘もあって、「おかんアート」を思い出した。手の込んだ料理、手作りの品々の他に、PTA活動や町内会の活動が受け皿になっていたのかな。うちの母親はPTA活動だったね。

「カーテンコール」いまいち乗れないので、「マザー」という韓国ドラマを見始める。これ、坂元裕二脚本の「Mothre」のリメイクなんだ。「最高の離婚」もリメイクしてたよね。内容分かるしなと、見る気がなくなって、いろいろ検索していたら、ヴァルダの「ダゲール街の人々」がある!これを見る。ヴァルダは近所のレンタルになくて、もう潰れてしまった街中の大きなレンタルにはあったんだけど、新作ばかり借りて1度も借りなかった。ミニシアター系が充実していたこの店舗は、貴重だったと、今更ながら。