2021.3.23

「デスゾーン栗城史多のエベレスト劇場」を読んだ。

前半は昨日書いたような感じで読んでたけど、後半は悲しくなってきた。彼の登山に対する姿勢を批判した記事を読んだのは、たぶん亡くなった後だった思う。彼は自身の登山の様子を「夢の共有」と名付け、動画で配信し、応援してくれる人に勇気を与えたいと言っていた。私はこの行為を冷めた目で見てしまう。24時間テレビのマラソンに持つ思いと、同じものを感じてしまう。私はこのマラソンが好きではない。走った人が自分も頑張ったから見ているあなたも頑張ってと言われても、そんなもの押し付けてくるなと思う。頑張っている人を見て、その姿に励まされることはある。でも、それは、その人がそのことを自分がやりたくて取り組んで、その結果こっちが勝手に励まされるという場合だ。マラソンの場合は、まず人を感動させようという目的ありきで、本人が望んでいるわけではなく話題性のある人が選ばれる。選ばれた人が頑張って取り組んでいることは否定しないけど、それを感動させようという目的のもとに編集されたものは冷めた目で見てしまう。本書を読んでいて、栗城さんに対して同じ思いを抱いた。彼の場合はマラソンではなく、登山だったということ。本書が「エベレスト劇場」と名付けられているように、多くの人が指摘しているように、彼は山が好きだったわけではない、自己実現の舞台に山を選んだのだというのは、同感だ。そして、その劇場は彼を利用しようとした大手スポンサーやメディアのよって拡大され、ネットを通じて私たちによりさらに消費された。命を懸けてまでやることだったのかなという思いはぬぐえない。

著者は栗城さんを取材していた時期もあり、栗城さんを追い詰めたのは我々メディアのありかたにも責任があると書き、自らにも責任があったと認める。この本はその思いがスタートで書かれたように思うが、それを素直に受け止められない部分もある。栗城さんのシェルパが登山の直前に事故でなくなったとき、著者はシェルパの死をこんな風に構成して、募金を募ってはどうかという番組の企画を披露する。栗城さんが婚約者のAさんと別れたときも、Aさんを中心に番組をまとめたらいいというようなことを書いている。人の死や不幸を、番組を企画するという視点でとらえ、それを本書に書いてしまうのは、反省しているけど、結局やめられないというように受け取ってしまう。ラストは、栗城さんが訪ねていた占い師が出てきて、彼の死の核心へと迫っていくんだけど、どうも著者が結論ありきで書き進めているように受け取ってしまい、鼻白む。ただ、思うところはあるものの、大変興味深く、一気に読んだ。栗城さんには苦言を呈してくれる人が周りにいたのに、彼は聞こうとしなかった。周りにいたのに。そのことが悲しいと思った。