2021.1.6

年末に買った「ディスタンクシオン」のテキストを読み進めている。ブルデューは芸術作品との偶然の出会いを否定する。「私たちの日常的な文化的行動、すなわち趣味は、学歴と出身階層によって規定されているというのです。」「芸術作品の素晴らしさを心から享受できるのも、その知識や態度、構えなどの出会いと前提となるものを家庭や学校から学んでいる、言い換えれば芸術と出会うための「遺産」があるからだと言うのです。」

テキストを書いた岸さんはラジオから流れてきたジャズをたまたま聞いて衝撃を受けたが、それは偶然の出会いではい。実家にはジャズのレコードがあり百科事典なんかもあり、つまり、自分には音楽を聴く下地があったのだと分析している。趣味は自分で選んで好きになったものではない、社会構造によって傾向づけられると読んだ時、どういうことと思うと同時に、ちょっとむっとしたのも正直なところ。自分の感性が否定されているように感じた。読み進めていくと、それは趣味だけではなく、「行為だけではなく、態度や能力、主観的な評価や判断、無意識の感覚や身体所作」にまで及ぶという。

で、それを理解するのに重要なのが、「ハビトゥス」、「界」、「文化資本」の3つ。ハビトゥスというのは、傾向性。面白いと思ったのが、どこで身に着けたかによってハビトゥスが変わってくるというもの。「家庭の中で身についたハビトゥスは、まるで空気のように自然で、その人をのびのびと自由に振る舞わせます。「文化的正統性を手にしているという確信にともなう自信と、優秀性と同一視されるゆとりを与えてくれる」からです。一方、学校の中で意識的な努力を媒介にして培われたハビトゥスは禁欲的な規範として働きます。」これって、生まれで全部決まっちゃうのと思ったけど、そうではないらしい。例えば、工業化が進んだ時。働き方だけではなく、様々な価値観が変わる、それが影響するらしい。それって、今のコロナも当てはまるような。

ちなみに、本書は難しいらしい。なぜなら著者がわざと難しく書いているから。なぜかというと、フランスのインテリに認められるには難しく書くことが必要だったから。やっぱりと思った。この本は読んだことないけど、哲学とか社会学の本とか、よく知らない自分でも必要以上に難しく書いてないかとか、読ませようと思って書いてないだろうと思うことがある。理解できない、読めない自分がケチ付けてるだけだったと思ってたけど、それだけじゃなかったらしい。

今「界」の途中。界とは簡単に言えば趣味の集まりみたいなもので、その中では利益を得るために闘争が繰り広げられているという。何言ってんのって思ったけど、どうやら一番批判される理論らしい。好きで聞いている曲に対して「いきなり横から「お前はそれを聞くことで、他人に差をつけようとしているだ」と指摘されると、大きなお世話だと反発したくもなります。」面と向かって言われたら、私だったら距離置くな。

「私たちは、自分が持っているハビトゥスや知覚様式、あるいは自分の「ポジション」の価値を押し上げるために、趣味を通じて価値観の押し付け合い合戦をやっているというのです。」これはね、分かる気がする。「界における相場感覚」というのが出てくるんだけど、要はその界でこの作品が、この監督がどういうポジションいるのかというのが分かる感覚のこと。確かに、ここでこの作品見てないって言ったら恥ずかしいとか、この監督好きって言ったら恥ずかしいみたいな感覚は分かる。つまり、それで自分のポジションをコントロールしているわけだ。そして、他人のことも判断している。趣味の集まりは楽しい反面、めんどくさいと感じるところは、こいうことかもしれない。

「「これはいい」と判断を下す際には、必ず「あれは駄目だ」という判断が伴うのです。ここで重要なのは、趣味に関する「いい/悪い」の判断は、単純な記号レベルではなく、自分の生き方そのものが関わってきている点です。」だから、趣味を否定されると、他の趣味も否定されるのではないか、「ひいては自分そのものを否定されることにつながるわけです。」ハビトゥスが否定されるわけだから、生き方自体が否定されるていると感じるということかな。

ちょっと難しくなってきたけど、頑張って読んでいこう。